「他社にまねされる商品をつくれ。」
この言葉に込められたのは、競争ではなく成長への信念でした。
日本のものづくりの原点を築いた一人、
早川徳次(はやかわ とくじ)さん。
ゼロから立ち上がり、戦争や災害を経ても諦めなかった彼の人生は、
“逆境を生き抜く力”そのものでした。
この記事では、職人として、発明家として、
そして「社会を育てる経営者」として生きた早川徳次さんの生い立ちをたどります。
Contents
基本プロフィール
- 名前:早川 徳次(はやかわ とくじ)
- 生年月日:1893年11月3日
- 出身地:東京・日本橋(現:東京都中央区)
- 職業:発明家、実業家、シャープ株式会社創業者
- 代表作:シャープペンシル(エバー・レディ・シャープ・ペンシル)
- 没年:1980年6月24日(享年86歳)
生い立ちと幼少期
明治時代の東京・日本橋に生まれた早川徳次さん。
幼いころに両親を亡くし、わずか9歳で丁稚奉公に出されます。
学校へ通うことも叶わず、
毎日朝から晩まで針金細工の仕事に明け暮れる日々。
それでも、手を動かしながら「もっと使いやすくできないか」と考えるのが好きだった少年は、
小さな改良を積み重ねては、周囲を驚かせていたそうです。
やがて「ものづくりこそが自分の生きる道」と確信し、
20歳になる頃には独立して自らの工房を構えました。
発明との出会いと挑戦
彼が手がけた数々の発明の中でも、最も知られているのがシャープペンシルです。
当時は鉛筆を削って使うのが当たり前の時代。
「削らずに使える鉛筆を作りたい」——
その一心で研究を重ね、1920年に金属製繰り出し式鉛筆を完成させました。
これが、のちの「シャープペンシル(Ever-Ready Sharp Pencil)」です。
この商品は大ヒット。
しかし、同じような製品を模倣する業者が次々と現れます。
それでも早川さんは怒りませんでした。
むしろ、こう語ったといいます。
「まねされるということは、世の中の役に立つものを作れた証拠だ。」
まねされるほどの良いものを作り、
そこからさらに改良を重ねていく。
この“競いながら進化する”精神が、
やがて日本の産業全体を押し上げていきました。
戦争と再出発
第二次世界大戦で大阪の工場が焼失。
多くの仲間と財産を失いました。
それでも早川さんは立ち上がります。
焼け跡に残ったわずかな道具を手に、
再び工房を立ち上げたのです。
戦後まもなく、彼は家電分野に挑戦。
「家庭に役立つ製品を作りたい」との思いから、
日本初のテレビや電卓の開発にもつながっていきます。
そしてその会社は、やがてシャープ株式会社となり、
世界に誇る日本のメーカーへと成長しました。
苦悩と信念
早川徳次さんは生涯、「競争」ではなく「共創」を大切にしました。
「まねが競争を生み、技術を高め、社会を発展させる。」
その哲学の裏には、幼少期に感じた“働く人たちの苦労”があります。
だからこそ、彼の発明はいつも誰かの暮らしを楽にするための工夫でした。
その温かさこそが、100年たった今もシャープ製品に息づいているのです。
名言と教え
「他社にまねされる商品をつくれ。まねが競争を生み、技術の底上げをし、やがては社会の発展につながる」
この言葉は、発明家としてだけでなく、
“社会を育てる経営者”としての覚悟を表しています。
まねされることを恐れず、常に前を見て新しいものを生み出す。
それは、現代のクリエイターにも通じる普遍的な哲学です。
まとめ
早川徳次さんの人生は、「逆境に負けない心」と「社会のための創造」で貫かれていました。
どんな時代でも、誠実にものづくりと向き合う人の姿勢は変わらない。
彼の歩みは、私たちにこう語りかけているようです。
「誰かのために作れば、それは必ず未来を照らす。」
人生に響く3つの教え
1. まねされることを恐れず、価値を更新し続ける
まねされるということは、自分の仕事が“必要とされている”証です。
早川さんは、模倣を恐れるよりも「次の改良」を大切にしました。
常に「昨日より良いものを」と考えるその姿勢が、
時代を超えてシャープの精神として受け継がれています。
「まねされたら、もっといいものを作ればいい。」
競争ではなく進化。
彼の言葉には、そんな前向きな哲学が息づいています。
2. 失っても、また立ち上がればいい
工場が焼けても、仲間が離れても、
早川さんは“自分の手”を信じ続けました。
「失敗は終わりではなく、もう一度考え直すチャンスだ。」
苦しみの中でこそ、本当の創造が生まれる。
彼の人生はその証でした。
焼け跡から再出発した姿には、どんな時代にも通じる希望の強さがあります。
3. 自分のためより、社会のために作る
早川さんの発明には、常に「人の役に立ちたい」という思いがありました。
利益よりも“暮らしを豊かにすること”。
その志があったからこそ、彼の製品は長く愛されました。
「社会がよくならなければ、会社の成功もない。」
この言葉に、経営者としての誇りと、
“職人の心”が共に生きています。
早川徳次さんの人生は、
「誰かのために何かを作る」という、
シンプルでまっすぐな信念に貫かれていました。
まねされても構わない。
それよりも、世の中を少しでも良くしたい。
その生き方こそが、
本当の意味で“発明家”と呼ぶにふさわしいものだったのかもしれません。


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