2023年12月31日。
中村メイコは、89年の人生を終えました。
晩年、彼女は自分の最期について「夫の腕の中で」と書き残していたといいます。
その願いの通り、最期は66年間連れ添った夫・神津善行に身体を支えられながら息を引き取りました。
2歳8か月で映画に出演してから86年。
女優、歌手、司会者、声優。
日本のテレビがまだ一般家庭になかった時代から、人前に立ち続けた女性でした。
けれど中村メイコの人生を辿っていくと、華やかな芸能生活とは少し違う姿が見えてきます。
作家の父と、家族を支える母のもとで育った少女。
23歳で結婚し、三人の子どもの母になった女性。
そして、老いていく自分を受け入れ、最後には死ぬことさえ笑い話にしてしまう人。
「人生という喜劇」を最後まで演じ続けた、中村メイコという一人の女性の人生を辿ります。
2歳8か月で始まった86年の芸能人生
中村メイコは1934年5月13日、東京に生まれました。
本名は五月。
父親は作家の中村正常です。
2歳8か月だった1937年、映画『江戸っ子、健ちゃん』に出演。
まだ「女優になりたい」と自分で決められる年齢になる前に、中村メイコの芸能人生は始まっています。
幼い頃からラジオにも出演し、やがて一人でいくつもの声を使い分けることから「七色の声」と呼ばれるようになりました。
1955年には『田舎のバス』で歌手としても活躍。
1959年から1961年までは、NHK紅白歌合戦の紅組司会を3年連続で務めています。
映画、ラジオ、テレビ、歌、司会。
どれか一つの肩書きに収まらない人でした。
それも当然だったのかもしれません。
中村メイコにとって芸能界は、大人になってから入った特別な世界ではありません。
物心がついた頃には、すでにそこが日常だったのです。
作家の父と、家族を支えた母
そんな中村メイコの生き方を考えるうえで、両親の存在は欠かせません。
父・中村正常は作家でした。
一方、母・千枝子は出版社で働いたり、喫茶店を経営したりしながら家計を支えました。
創作の世界に生きる父と、現実の暮らしを回す母。
中村メイコは、そんな二人の間で育ちます。
後年、彼女は母親のことを「名通訳」と表現しています。
個性的な父親の言動を、娘が理解できるように伝える。
そして娘が父親を嫌いになったり、軽蔑したりしないよう、父への敬意を守り続ける。
母は、家計だけではなく家族の関係まで支えていたのでしょう。
華やかな芸能界で生きながら、中村メイコがどこか現実的だったのは、そんな母親の姿を幼い頃から見ていたことも関係しているのかもしれません。
「普通」の学校生活を送れなかった少女
幼い頃から仕事をしていた中村メイコには、同年代の子どもたちと同じような学校生活がありませんでした。
戦時中は奈良へ疎開。
終戦後、女学校への進学を目指したものの、芸能活動を続けていることを理由に入学に反対されたと伝えられています。
結局、父・正常が家庭教師となって勉強を教えることになりました。
幼い頃から大人に囲まれて仕事をし、学校へ通って友達と過ごすという「普通」の少女時代を経験することが難しかった中村メイコ。
女優であることは、彼女にとって職業というより、生活そのものになっていきました。
海から助けられたとき、ポケットにあった一枚のメモ
後に66年間をともにすることになる作曲家・神津善行との間には、少し映画のような話が残されています。
若い頃、中村メイコはつらい気持ちを抱え、海へ入っていったことがあったといいます。
助け上げられた彼女のブレザーの内ポケットには、一枚のメモが入っていました。
そこに書かれていたのが、神津善行の電話番号でした。
家族ではなく、この番号へ連絡してほしい。
そう頼むと、連絡を受けた神津はすぐに駆けつけました。
中村メイコは後年、この出来事を振り返り、単なるラブロマンスというより「運命」だったのかもしれないと語っています。
だからといって、二人がその日から一気に恋人同士になったわけではありません。
それから時間をかけ、少しずつ二人の距離は縮まっていきました。
23歳で神津善行と結婚
1957年、中村メイコ23歳、神津善行25歳。
二人は結婚しました。
仲人を務めたのは徳川夢声でした。
ただ、二人の結婚には恋愛だけでは片づけられない、家族の事情もありました。
中村メイコは一人っ子。
そのため中村家から神津善行へ、養子に来てもらえないかという話があったそうです。
家や墓を将来誰に託すのかという、現実的な問題があったからです。
しかし神津にも自分の家の事情があり、養子の話は断りました。
さらに結婚するとき、父・正常は神津に、
娘の教育はこれまで自分がしてきたのだから、結婚したらそれを引き継いでほしい。
そんな趣旨のことを伝えたといいます。
幼い頃から芸能界で働き、学校生活を十分経験できなかった娘。
その娘を家庭で教育してきた父親から、夫となる男性へ。
少し変わった「引き継ぎ」でした。
実際、結婚後も中村メイコが仕事や世の中のことで「これはどういうこと?」と尋ねると、神津はそのたびに説明したと振り返っています。
夫であり、話し相手であり、ときには先生でもある。
若い日の海で駆けつけてくれた男性は、その後の長い人生でも、中村メイコを支える人になっていきました。
妻になり、三人の子どもの母になっても仕事を続けた
二人の間には、長女・神津カンナ、次女・神津はづき、長男・神津善之介が生まれました。
結婚しても、母になっても、中村メイコは仕事を辞めませんでした。
妊娠中も大きなお腹でラジオや舞台の仕事を続けていたといいます。
昭和の時代。
妻になり、母になった女性が仕事を続けることは、今ほど当たり前ではありませんでした。
それでも中村メイコにとって、「家庭か仕事か」という二択ではなかったのでしょう。
どちらも自分の人生だった。
ただ、その子育ては、世間が想像する「立派な芸能人ママ」とはずいぶん違っていたようです。
「普通のお母さん」をやってみたら、芝居になった
娘たちは後に、中村メイコを「規格外の母」と振り返っています。
長女・カンナが幼い頃、友達の家へ遊びに行くようになり、自分の家が他の家庭と違うことに気づいたといいます。
父親は作曲家なので家にいる。
母親は仕事でほとんど家にいない。
出かける母親はハイヒールを履き、つけまつげをしている。
そして家には芸能人が集まり、ホームパーティーが開かれる。
次女・はづきが幼稚園へ行く頃には、前夜から家で飲んでいた人たちが朝になっても寝ていて、その間を通って登園することさえあったそうです。
ところが長男・善之介が生まれると、中村メイコは突然「普通に育てたい」と考え、閑静な住宅街へ引っ越しました。
「普通のお母さん」になろうとしたこともありました。
ところが、幼い頃から演じることが日常だった彼女にとって、「普通のお母さん」を意識して演じるほうが、かえって芝居のようになってしまったようです。
女優として舞台に立つときより、母親らしく振る舞おうとしたときのほうが「役」を演じている。
中村メイコという人の人生を考えると、とても象徴的な話です。
子どもを愛することと、子どもを自分のものにすることは違う
中村メイコの子育てには、はっきりした考えがありました。
子どもを一人の人間として扱うこと。
進路へ必要以上に口を出さず、自分の人生は自分で決めさせる。
そして、ある年齢になれば親元から離す。
そこには「子どもだから親の言うことを聞かせる」という発想とは違うものがあります。
家族であっても、一人ひとり別の人間。
これは子どもだけではなく、夫婦関係にも共通していました。
長く一緒にいるからこそ、近づきすぎない。
夫婦にも「少し他人行儀な部分」が必要だと考えていたのです。
家族を愛しているから、いつも一緒にいる。
家族を愛しているから、何でも知っている。
中村メイコの考えは、その反対でした。
愛しているからこそ、相手の人生へ入り込みすぎない。
その距離感が、神津善行との66年にわたる結婚生活にも、三人の子どもとの関係にも流れていました。
「お姫さまでも、美人でもない。だから立って手伝いなさい」
中村メイコらしい子育てを伝える、印象的なエピソードがあります。
大勢の人が集まるホームパーティーで、娘が座っていると、母は容赦なく立たせました。
「あなたはお姫さまでもないし、美人でもない。だから立って手伝いなさい」
今なら、なかなか強烈な言葉です。
けれど、そこには中村メイコなりの教育がありました。
誰かが自分を特別扱いしてくれるのを待たない。
自分から立つ。
自分から動く。
人生を受け身で待たない。
娘の神津はづきは、そんな母から「涙は隠して喜劇的に生きる」ことを教わったと振り返っています。
華やかな暮らしから、ものを手放す暮らしへ
長い芸能生活を送れば、当然ものは増えていきます。
洋服、食器、思い出の品。
けれど晩年、中村メイコはそれらを次々と手放していきました。
判断基準は意外なほど単純でした。
これから使うか、使わないか。
高価だったから。
思い出があるから。
いつか使うかもしれないから。
そうした理由だけで抱え込まない。
家族との距離を大切にした人は、ものとの距離も整理していったのでしょう。
過去を全部抱えて残りの人生を歩くのではなく、必要なものだけを持って、身軽になる。
彼女にとって片づけは、単なる整理整頓ではありませんでした。
これからどう生きるかを決める作業でもあったように思います。
老いは「面白がった方が幸せ」
年齢を重ねれば、できなくなることが増えます。
中村メイコも例外ではありませんでした。
けれど、できない自分を無理に若い頃へ戻そうとはしませんでした。
できなくなった自分も受け入れる。
そのうえで、落ち込んでいるだけではもったいない。
若い頃、腰の曲がった行商の女性へ「大変ですね」と声をかけたことがあったそうです。
すると女性は、若い頃はかがむのが大変だったけれど、今は最初から曲がっているから楽だと答えました。
その言葉を、中村メイコは長く覚えていました。
同じ老いでも、どう見るかで変わる。
できなくなったことだけを見るのか。
今だから面白いことを見つけるのか。
彼女が辿り着いたのは、
「老いは面白がった方がずっと幸せ」
という考えでした。
死ぬことまで、喜劇にしてしまう
中村メイコは、自分の死についてもよく考えていました。
最期は病院で迎えたいとも語っていました。
家は家族が暮らす場所。
そこへ「人が死ぬ」という非日常を持ち込み、残された家族につらい記憶を残したくないという考えからでした。
遺言についても、自分の考えはこれまでの生き方を見ていれば子どもたちに伝わっているはずだと考えていました。
言葉ですべてを管理して残そうとはしなかったのです。
一方で、終活を完璧にするつもりもありませんでした。
ある程度は散らかしたまま死んで、子どもたちが文句を言いながら片づけているところを、空から笑って見ていたい。
死を考えているのに、どこか可笑しい。
それが中村メイコでした。
老いることも。
夫婦で暮らすことも。
子どもと離れることも。
そして死ぬことさえも。
深刻さだけで包まず、少し笑えるところを探していました。
66年前、海へ駆けつけた人のそばで
2023年12月31日、中村メイコは89歳で亡くなりました。
晩年は神津善行と二人で暮らしていました。
亡くなった日にも、少量ながら好きだった酒を口にしていたと家族は語っています。
そして以前から書き記していた、
「最期は夫の腕の中で」
という願いの通り、神津善行に身体を支えられながら人生を終えました。
若い日の中村メイコが海から助け上げられたとき。
ポケットに偶然入っていた電話番号を頼りに、駆けつけてくれたのが神津善行でした。
それから二人は結婚し、三人の子どもを育て、66年を一緒に生きました。
そして最後にも、そばにいたのは同じ人でした。
2歳8か月から89歳まで。
人生のほとんどを「中村メイコ」として生きた人でした。
けれど、その人生を辿ってみると、最後に残るのは華やかな芸能界の話だけではありません。
作家の父と、それを支えた母の娘。
神津善行の妻。
三人の子どもの母。
そして、老いていく一人の女性。
家族を愛しながら近づきすぎず、子どもを愛しながら手放し、ものを手放し、若さも手放していった。
けれど最後まで手放さなかったものがあります。
人生を面白がることでした。
悲しいことがなかったわけではない。
老いがつらくなかったわけでもない。
それでも、最後に少し笑えるところを探す。
2歳8か月から始まった長い舞台を、中村メイコはそんなふうに89歳まで生き切りました。


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