石川祐希30歳でまた世界へ踏み出した理由——「新しい経験が必ず僕を成長させる」

スポーツ選手

男子バレーボール日本代表の主将として、世界のトップ選手たちと戦い続ける石川祐希。

192cmの身長を生かした高い打点から放たれるスパイク。

世界最高峰といわれるイタリア・セリエAで長くプレーし、日本代表ではキャプテンを務めてきた。

その姿だけを見れば、子どもの頃から恵まれた体格と才能を持つ、いわゆる「エリート選手」に見えるかもしれない。

しかし、小学6年生の頃の身長は157cm。

バレーボールを始めたのも、小学4年生のとき、1学年上の姉の練習について行ったことがきっかけだった。

そんな少年が、なぜ世界最高峰の舞台までたどり着いたのか。

石川祐希の歩みを追っていくと見えてくるのは、才能だけではない。

そこには、自分を成長させる場所を自分で選び、新しい環境へ身を置き続けてきた、一人のアスリートの姿がある。

バレーボールとの出会い——小学6年生で157cmだった少年

1995年12月11日、愛知県岡崎市に生まれた石川祐希。

最初からバレーボール一筋だったわけではない。

子どもの頃にはサッカーや野球も経験している。

バレーボールとの出会いは小学4年生のときだった。

1学年上の姉が所属していたクラブチームの練習を見に行ったことをきっかけに、自分もバレーボールを始める。

現在192cmの石川だが、小学6年生の頃は157cmだった。

それでも練習を重ね、中学を経て愛知県の星城高校へ進学すると、その才能は大きく開花する。

高校三冠を2年連続——勝ち続けた高校時代

星城高校時代、石川は全国の舞台で圧倒的な結果を残した。

2012年と2013年、インターハイ、国体、春高バレーの「高校三冠」を2年連続で達成。

高校バレーの頂点に立った。

高校卒業後は中央大学へ進学。

大学でも1年生から活躍する。

このまま日本で経験を積んでいく。

そんな道もあったはずだ。

しかし石川が選んだのは、もっと大きな世界だった。

大学1年生のとき、イタリア・セリエAへ渡った。

大学1年、イタリアへ——言葉も通じない世界に飛び込んだ

2014年、石川はイタリアのモデナへ短期移籍する。

まだ大学1年生。

言葉も文化も食生活も違う。

そしてコートに立てば、世界トップクラスの選手たちがいる。

日本にいれば十分に評価される選手が、あえて自分の力だけでは簡単に通用しない世界へ飛び込んだ。

海外で一人で生きる経験について、石川は後に、簡単ではないからこそ成長できたという趣旨のことを語っている。

技術だけではない。

自分で考え、自分で判断し、自分で環境に適応していく。

石川が海外で鍛えてきたものは、人間としての「個の強さ」でもあったのだろう。

「個の強さ」がなければ世界では勝てない

日本のバレーボールの強みといえば、「チーム力」が挙げられる。

組織で守り、つなぎ、全員で攻撃する。

石川自身も、日本にはチーム力という強みがあることを認めている。

その一方で、海外の選手たちと戦うなかで課題も感じていた。

「個の強さ」だ。

バレーボールはチーム競技でありながら、一つひとつのプレーをするのは一人の選手である。

苦しい場面で一本のスパイクを決める。

サービスエースを取る。

一本のブロックで流れを変える。

石川は、日本代表が強くなった理由の一つとして「一人で流れを変えることができる選手」が増えたことを挙げている。

考えてみれば、石川自身が長い年月をかけて目指してきたのも、そんな選手だったのではないだろうか。

強いチームの中に入ることで強くなるのではない。

まず、自分自身を強くする。

そして、その力をチームのために使う。

キャプテンなのに「手を差し伸べない」

石川祐希のリーダーシップには、少し意外なところがある。

困っている仲間がいたら、キャプテンが助ける。

普通なら、そう考えるかもしれない。

しかし石川は、困っている選手がいても、なるべく自分から手を差し伸べないようにしているという。

そこにあるのは、自分一人で挑み、自分で解決する経験を大切にしてほしいという考えだ。

一方で、年齢や立場による上下関係にはこだわらない。

コートでは集中し、コートを離れれば友人のようにフランクに話す。

石川が作ろうとしているのは、「キャプテンについていくチーム」ではないのかもしれない。

一人ひとりが自分で考え、自分の足で立つ。

そんな選手たちが集まったチームだ。

自分が海外で経験してきたことを、今度はキャプテンとしてチームに還元しているようにも見える。

あと一本を決められなかった——パリ五輪の敗戦

2024年8月。

パリオリンピック準々決勝。

相手は、石川が長年プレーしてきたイタリアだった。

日本は2セットを先取し、第3セットではマッチポイントを握った。

あと1点。

その1点を取れば、日本男子バレーにとって52年ぶりとなるオリンピック準決勝進出だった。

しかし、イタリアはそこから試合をひっくり返した。

2対3。

日本は準々決勝で敗退した。

石川は両チーム最多の32得点を挙げた。

それでも試合後、石川は「僕が最後1本決められず」と、自分の責任を口にした。

一方、仲間について語った言葉は違った。

「最高のチームだった」

結果は伴わなかったが、仲間はベストプレーをしてくれたと話し、ここまでついてきてくれたことへの感謝を伝えた。

仲間には感謝を。

結果の責任は自分に。

長い間「個の強さ」を求めてきた石川だからこそ、最後の一本を自分の責任として受け止めたのかもしれない。

「世界一」を求めてペルージャへ

パリ五輪と同じ2024年、石川はイタリアの強豪ペルージャへ移籍した。

石川には以前から「世界一のプレーヤーになる」という目標があった。

では、石川にとって世界一とは何なのか。

2024年の移籍会見で、その条件をこう語っている。

「チームが優勝することは絶対条件。その中でMVPを取ること」

自分が活躍すれば、それだけで世界一なのではない。

まずチームが勝つ。

そのうえで、自分が最も価値のある選手になる。

そしてペルージャで、石川はまた一つ大きな壁を越えた。

2025年、ペルージャは欧州チャンピオンズリーグを制覇。

石川は同大会を制した日本人男子初の選手となった。

さらに2025-26シーズン、チームは世界クラブ選手権、スーパー杯、イタリアリーグ、欧州チャンピオンズリーグを制し、4冠を達成した。

ただし、石川自身にとっては順風満帆なシーズンではなかった。

右膝のけがに苦しみ、出場機会も減った。

4つの金メダルを手にしても、本人は「非常に複雑なシーズンだった」と振り返っている。

チームが勝つこと。

その中で自分も力を発揮すること。

石川がかつて語った「世界一」の難しさを、自ら経験したシーズンでもあった。

30歳、11シーズン戦ったイタリアを離れる

そして2026年。

石川は大きな決断をする。

大学時代から通算11シーズン戦ってきたイタリアを離れ、トルコの強豪ジラート・バンク・アンカラへ移籍することを決めた。

30歳。

イタリアで確かな地位を築き、ペルージャでは欧州の頂点にも立った。

その場所に残る選択肢もあった。

それでも石川は、環境を変える道を選んだ。

理由について、

「新しい経験が必ず僕を成長させると確信しています」

と語っている。

さらに移籍後のインタビューでは、バレーボールだけを考えれば同じ環境にいてもよかったが、新しい経験をすることで人としても成長できると思った、と説明している。

ここまで彼の人生をたどってくると、この決断はそれほど意外ではない。

大学1年で日本を飛び出したときと同じなのだ。

慣れた場所にとどまることより、まだ知らないものがある場所へ行く。

そこでまた、自分を成長させる。

石川祐希が求め続けているもの

小学6年生で157cmだった少年は、高校で日本一になった。

日本で勝っても、そこに留まらずイタリアへ渡った。

世界最高峰の舞台で戦い続け、日本代表のキャプテンになった。

ペルージャでは欧州の頂点にも立った。

それでも30歳になった今、また新しい国へ行く。

石川祐希が求め続けているものは、もしかすると「勝利」だけではないのかもしれない。

自分がまだ知らないものに出会うこと。

昨日までできなかったことを、できるようにすること。

そして、自分自身を更新し続けること。

「個の強さ」を求めて世界へ行き、その力をチームのために使う。

そして一つの場所で何かを手に入れたら、また次の場所へ向かう。

世界一とは、一度たどり着けば終わる場所ではないのかもしれない。

石川祐希は今も、その途中にいる。

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